八女茶コラム

八女茶の歴史(大正時代)

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国際情勢も不安定だった大正時代。八女茶はどのような経緯を辿ったのでしょうか。

大正時代に入り、欧州諸国の植民地でプランテーション農業とアッサム種での栽培による高品質で安価な紅茶が大規模に流通されるようになると、日本の紅茶輸出は欧州諸国からユーラシア大陸に向けられることになりました。

しかし結果として、世界最大の紅茶消費国であるイギリスが紅茶生産に踏み切ったことと、紅茶を飲む習慣のなかった日本がその嗜好を生産に反映させることができなかったことが、次第に衰退を招く要因となりました。

輸出商品としての日本の「茶」は世界市場の動向を受け、内需型商品としてふたたび国内市場へ向け生産されていくことになります。

八女地方でも国内市場向けに生産を行うようになり、釜炒茶よりも人気のあった蒸製緑茶に再び注目が集まりました。全国の茶市場を席巻していた静岡製を手本にするべく、静岡から技師を迎え、静岡製煎茶の伝習を行い、茶園管理を徹底し、全面的に蒸し製手揉みへの転換を行っていきました。

この製茶方法の転換の成功を機に、大正初期、八女郡西部の丘陵地帯(現在の八女市岡山周辺)に植えられていたろうそくの原料となる櫨の生産が、電球の発明により衰退してきていたことで、櫨の代わりに茶園が造成され始めました。

この西部櫨地帯における茶園の造成が、旧来の茶園である東部山間地帯の茶の転換と軌を同じくしたことは、八女地方の茶業を発展させる最大の好機となったと言えます。

また、大正14年(西暦1925年)に、釜炒り製や蒸製の茶が混在し、複数の地域名で呼ばれていた郡産茶を、改良された高品質の蒸製緑茶「八女茶へと統一されました